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~基本情報~

●名称:有限責任狩太共生農團信用利用組合

●設立:1924年設立、1949年解散(戦後の農地改革による)

●住所:〒048-1531 北海道虻田郡ニセコ町字有島57番地(記念館住所)

●メンバー:元有島農場小作人

●事業:農地共有、稲作、酪農、資材・機械の共同購入・共同利用、市場への共同直接販売

●特徴:大正時代の作家、有島武郎が農地を小作人達に解放して、設立した

●代表:不明、元有島農場小作人の組合員の合議制で運営

●連絡先:Tell: 0136-44-3245 Fax:0136-55-8484 Mail:arishima@town.niseko.lg.jp(記念館連絡先)

 

~概要~

 狩太共生農團は戦前、北海道狩太村(現ニセコ町)で大正時代の作家、有島武郎が、農地を小作人達に解放し、設立した、土地共有、資材や機械の共同購入・共同利用、市場への共同・直接販売などを行った農民の組合です。

 有島武郎は大正時代の日本の有名な作家であり、幅広い執筆活動をしていましたが(代表作は『カインの末裔』『小さき者へ』『生まれ出づる悩み』『或る女』『一房の葡萄』など。武者小路実篤、志賀直哉らと『白樺』発刊)、社会主義思想、トルストイ、クロポトキンに影響を受け、父、有島武(明治政府の官僚だったが、実業界に転身、成功した)から相続した、450ha (東京ドーム100個程) の農場を、小作人達に解放、共生農團としました。

 

~場所~

 有島家の農場=後の狩太共生農團の敷地は、北海道狩太村(現虻田郡ニセコ町字有島の周辺)にありました。

 ニセコ町は、東は「蝦夷富士」の名高き羊蹄山、北はニセコ連峰の最高峰・ニセコアンヌプリ、南は昆布岳、

西も山地に囲まれた、標高の高い内陸の豪雪地帯です。現在は北海道内、日本国内、アジア、オセアニアからの

観光客で賑わい、夏は大自然の中のアクティビティ、冬はスキーが楽しめ、海外からの投資も活発な地域です。

 しかし、明治初期は気象条件や交通事情が良くない為、入植は進んでおらず、開拓が進むのは1897年、政府の「北海道国有未開地処分法」(資本家に未開拓の土地を無償で貸し、開拓後は無償で譲渡する)の制定後です。

有島武郎の父、武は、北は現ニセコ町北部の尻別川南岸(現在の函館本線沿い)から、南は現在の国道5号線辺りまで、西はニセコ市街から東は羊蹄山裾野までの350haの土地を政府から借り、開拓させ、手に入れました。

また、そこから南南東方向、現在の道道230号、三ノ原ニセコ線沿い、豊里の100haの土地も買い取りました。

農場内には二つの丘と羊蹄の湧水を水源とするカシュンベツ川が流れており、地域では比較的平坦な土地でした。

 北海道札幌市から行くには、札幌市南区の定山渓から、国道230号線の中山峠を越え、羊蹄山南側、道道66号線で喜茂別町、真狩村を抜けるルートと、国道5号線か道央自動車道で小樽に行って、国道393号線で朝里川温泉、赤井川村、倶知安町を抜けて再び国道5号線を南下するルートが有りますが、時間は大して変わりません。札幌~小樽の高速道路を使わないなら、定山渓、中山峠のルートが早いでしょう。両方、所要時間2時間程です。

 

~施設~

 1949年の農地改革で農團は解散しましたが、有島農場があった地に、有島記念館や関係史跡が残っています。

 国道5号線からニセコ駅に抜ける道の右側に「狩太共生農團入口石碑(写真参照)」が立っており、入ると、

有島記念館(写真参照)、有島謝恩会館(写真参照)、旧有島農場事務所跡があります。旧有島農場事務所跡は、解放前は有島農場の事務所 兼 有島武郎の住居、解放後は狩太共生農團の事務所、解散後は初代「有島記念館」でしたが、1957年に火災で焼失。1963年に元組合員や地域住民の協力により、有島謝恩会館が建設されました。

そして、1978年、ニセコ町が有島武郎生誕100年を記念して、現在の有島記念館を設立し、今に至ります。

 また、有島武郎が小作人達に農場開放を宣言した、弥照神社(写真参照)、農場開放を記念して建設された、

解放記念碑(写真参照)もあり、周辺には、かつて狩太共生農團だった農地(写真参照)が今も耕されています。

 

~歴史~

 有島武郎の父親、武は島津藩の武士でしたが、明治政府の官僚として出世して、大蔵省国債局長まで務め退官、島津家や薩摩藩をバックに実業界に転身し、第十五銀行、日本郵船会社、日本鉄道会社等の役員を務めました。1897年に北海道で国有未開地処分法が施行されると、北海道狩太村の350haの土地で開拓事業を始めます。

 有島武郎は父・武、母・幸のもと、1878年に東京で生まれました。横浜英和学校、学習院予備科、同中等科、札幌農学校予科、同本科を卒業。札幌農学校在学中に有島農場の開墾が始まり、「農への憧れ」を抱きました。

一方、在学中にキリスト教に入信、農場経営に疑問を抱きます。また、卒業後、米国のハヴァフォード・カレッジ大学院、ハーバード大学院に留学。社会主義やトルストイ(原始キリスト教的思想で国家、搾取、私有財産を否定したロシアの作家)、クロポトキン(人間同士の相互扶助を重視した、ロシアの革命家)の影響を受けます。 

 その後、ヨーロッパを旅行し、日本に帰国。東北帝国大学農科大学(元札幌農学校、後の北海道大学)に入り、

講師、教授を務め、妻、安子と結婚。『白樺』で作品を発表し、子供も生まれ、順調な生活を送っていました。

一方、社会主義やトルストイ、クロポトキンの影響を受け、自分が父から受け継いだ有島農場の「地主」として、小作人達から「搾取」する事に葛藤し、父親と対立します。しかし、1916年の父・武の死で、武郎に精神的な開放が訪れ、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』『一房の葡萄』等の有名な作品を次々発表します。

 ですが、1920年代に入る頃から創作不振に陥ります。また、1910年代後半から、第一次世界大戦後の不景気で、農場の小作人は困窮。武郎は創作不振の原因を、親譲りの財産、農場に依存する「悪い生活」にあると考え、

それらを「清算」して、額に汗する生活を送る事で、自らの芸術を再生させる事を願い、農場開放を決心します。

1922年07月18日、弥照神社に小作人達を集め、小作人達が相互扶助的な自治組織を結成し、農地を共有する前提で、農地の無償開放を宣言。翌年、武郎は死去しますが、1924年、「狩太共生農團」が設立されました。

 小作人は出資金を出して団員となり、総会、委員会等の合議制で運営して、農地共有、共同購入、共同利用、

共同・直接販売等の事業を行いました。昭和の農業恐慌、冷害、借金返済、戦時の統制経済、若者の出征、資材不足、と多くの苦難を一致団結して乗り越えますが、1949年第2次農地改革で解散させられてしまいました。

ですが、後年、記念館が建設され、有島武郎と団員達の理想と実践の記憶は、今もニセコの地に息づいています。

ウェブサイト:http://www.town.niseko.lg.jp/goannai/arishima.html

参考文献

・『有島武郎とその農場・農団ー北辺に息吹く理想ー』 高山亮二 星座の会(有島記念館友の会)1986年

・『有島武郎と北海道』有島記念館 2002年

09:狩太共生農團

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