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11:羅須地人協会

~基本情報~

●名称:羅須地人協会

●設立:1926年設立、1927年活動休止

●住所:設立場所:現岩手県花巻市桜町、移設場所:花巻市葛1-68(花巻農業高校内)

●メンバー:宮沢賢治と近隣農家ら

●事業:農業、科学、芸術の指導

●特徴:宮沢賢治が農業生活をしながら、近隣農家に農業、科学、芸術などを教えていた。

●代表:宮沢賢治

●連絡先:Tell:0198-26-3131  Fax:0198-26-1220(現管理団体、花巻農業高校事務室)

 

~概要~

 羅須地人協会は1926年、岩手県花巻市の宮沢家の別宅で作家・宮沢賢治が設立した、近隣農家に農業、科学、芸術などを教える私塾です。世間の誤解によって半年程で活動を休止、自信の病気で再開は出来ませんでした。

ですが、宮沢賢治の農業や芸術や科学に対する考え方、理想・思想とその実践が表れた、特徴的な活動でした。

 

~場所~

 花巻市は、東の岩手を東西に分ける北上山地と、西の岩手・秋田を分ける奥羽山脈に挟まれた北上盆地にあり、

南北に北上川、東北本線、新幹線、高速道路、国道4号線が走る田園地帯です。当初、羅須地人協会は現花巻市

桜町にありましたが、現在は花巻市葛の花巻空港と北上川に挟まれた、花巻農業高校の中に移設されています。

~施設~

 羅須地人協会の建物は、もとは宮沢家の別宅で、木造2階建て、1階は10畳と8畳の2室、2階は8畳の1室が

あり、賢治の妹のトシが結核で亡くなるまで療養所として使用されました。その後、賢治が1階の10畳を集会に

使える洋室に改装し、羅須地人協会に使用しました。協会で使った洋室は、当時の様子が再現されていて、黒板や椅子、オルガンや本棚が並べられていて、当時の雰囲気を知る事が出来ます。建物周辺の庭園には、宮沢賢治の像や、宮沢賢治が発表した、「農民芸術概論要綱」の石碑、花巻農学校精神歌詩碑、などが並んでいます。

 この建物は賢治の死後、人手に渡り、現在の場所に移築されましたが、、1969年に花巻農業高校に用地として買い取られ、羅須地人協会「賢治先生の家」として一般に公開される様になりました。また、花巻市内各地に、宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、宮沢賢治イーハトーブ館などの関連施設が有り、宮沢賢治の足跡を辿れます。

 

~人物~

 宮沢賢治は作家として有名ですが、同時に在野の農業人であろうと努めた人でした。1896年、花巻市川口で

生まれ、花巻川口尋常高等小学校(6年制)、盛岡中学校(5年制)、盛岡高等農林学校(3年制、主席入学、2年次、3年次特待生)を卒業、盛岡高等農林学校の研究生となり2年で修了。この頃、童話創作を開始しました。 

 その後一時、東京で生活しましたが、妹のトシの病気を知って帰郷。稗貫郡立稗貫農学校(翌年、岩手県立花巻農学校に昇格)の教諭となり、農家の子弟を教育します。1922年に妹は死去しますが、花巻に留まりました。

この頃、音楽レコードや書籍を好み、童話などの作品の創作も続け、『注文の多い料理店』などを発表しました。

 ですが、彼には葛藤があったといいます。農家の子弟に「農民になれ」と教えながら、自分は教職に就いて、

給与を貰っている事に矛盾を感じていたという事です。1926年春、花巻農学校を退職。宮沢家別宅を改装し、

そこで一人で生活する自給自足生活を始め、同年8月、近隣の若い農家と共に、羅須地人協会を設立しました。

 賢治は昼間は田畑を耕し、夜は協会で講義を開き、集まった農家らに農業技術や自然科学や芸術を教えました。「農民芸術概論要綱」もこの時期に発表して、金を貰う芸術家による、金を出す金持ちの為の芸術ではなく、一般の人々=農民による、農民が楽しく暮らす為の、自然の中での労働や生活の発露としての芸術を実践しようと主張しました。そして、レコードの鑑賞会を開いたり、楽団の結成を考え、楽器の練習をして、実践しました。

 しかし協会の活動が社会主義教育と誤解され、警察に事情聴取され、1927年3月、協会の活動を休止します。

賢治はその後も、農業指導や肥料設計は続けましたが、1928年夏、病気を患い、実家での療養生活に入ります。

 1931年、状態が良くなると東北砕石工場で働きだしますが、無理が祟って体調を崩し、再び実家で療養生活に。この年の11月、『雨ニモ負ケズ』の詩を書き、創作活動を続け、近隣農家の相談に乗りながら闘病を続けますが、1933年9月、自宅で家族に看取られながら死去。遂に賢治の死まで、協会の活動は再開されませんでした。

ですが、賢治は、死の前日まで近隣の農家の農業の相談に乗っていました。協会の活動という形はとらずとも、

最後まで、故郷の花巻に、「イーハトーブ」の地に農業を通じて貢献しようという想いがあったのでしょう。

 彼が勤めた花巻農学校は、現在は花巻農業高校となり、彼が暮らした宮沢家の別宅、羅須地人協会の建物は、花巻農業高校の敷地に移設され、高校の生徒からは「賢治先生の家」と呼ばれています。花巻の地で農業を学ぶ生徒達を、賢治先生は今でも見守っている、かもしれません。

ウェブサイト:http://www.kanko-hanamaki.ne.jp/sightseeing/ihatov/rasuchijin/(一社)花巻観光協会

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