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20:農村青年共働学校

~基本情報~

●名称:農村青年共同学校

●設立:1928年設立、1934年解散

●住所:静岡県裾野市葛山

●メンバー:岡本利吉、全国の農業者

●事業:春~秋は農業、冬は学校

●特徴:農村問題の研究家、岡本利吉が共働組織、共働農村の普及を目指し、設立した学校

●代表:岡本利吉

●連絡先:Tell: Fax: Mail:

 

~概要~

 農村青年共働学校は1928年、静岡県駿東郡富岡村葛原(現在の裾野市葛原)で岡本利吉という農本主義者で

農村問題の研究家だった人物が設立した学校です。春~秋は農場で農業を行い、冬の農閑期に全国の農業青年を

集め、農業や社会について教育し、「共働組織」「共働農村」を全国に普及させる事を目的に設立されました。

 

~場所~

 農村青年共働学校は静岡県駿東郡富岡村葛原という、富士山の南南東にある愛鷹山の東の麓、今の裾野市葛山

にあたる地域にありました。裾野市はその名の通り、富士山の南南東の中腹から、愛鷹山の北東側半分を経て、

芦ノ湖南西の三国山まで、富士山の裾野に広がる町で、葛山は、西は愛鷹山、東は箱根山地に挟まれ、黄瀬川が

流れる平地にあり、東は東名高速、西は愛鷹山中腹まで東西に細長く伸びる地域で、殆どが山の中になります。

詳しい場所は不明ですが、裾野図書館の裾野市史で調べた所、「裾野の街から一里半富岡村葛山奥」の「雑草と

樹木とでおほはれた自然そのまゝの原野」と書いてあったので、葛山の集落から山の中に入った所のようです。

 

~施設~

 岡本利吉は農村青年共働学校の敷地として40haの山林を購入し、木を切り、草を刈り、土地を耕して畑を作り、13棟の建物を建てました。6年間そこで作物を育て、冬季、農業青年と共同生活をしながら、教育を施していたという事で、結構な規模の施設があったものと思われます(施設の詳細も不明です、すみません…)。

 

~人物~

 岡本利吉は1885年に高知市で生まれ、東京郵便電信学校を卒業し、逓信省三菱倉庫に勤務していましたが、1919年、企業立憲協会を組織、1920年消費者組合亀戸協働社を開設と、社会主義運動家として活動を展開し、1928年、静岡で農村青年共働学校を開設しました。彼は当時の日本の人口増加による食料不足の解決策として、山を利用する生産共働の産業組合組織を全国に設立する事を目指し、農業青年を集めて教育しようとしました。

実際に山林を開墾し、稲、麦、さつま芋といった作物を作り、また、デンマークの国民高等学校を手本として、

毎年12月から3月まで、日本全国の農業青年を集め、労働と教育を施しながらの共同生活に従事しました。

 1927年の東京朝日新聞に、彼が目指した『共働組織』について、「この村は「主人のない村」で村民はすべて共働し『労力は節約されて新生産を興し、新生産の収入は蓄積されて共働組織へ資本が充実し資本の充実は労働能率を高め、これはさらに新生産を起す』原動となるというふじゅん環経済がこの村の組織の基となってゐる。」と、農村青年共働学校について「この学校の特色は『模範的個人』の養成が目的で、人間学校とも称され、生徒も無月謝の代わりに、講師も無報しうで、朝は教育、午後は労働にしたがふので、一ケ年で卒業し、卒業生は全国に分布して、共働農村の普及を図るのである」と説明されています。

 ただ、この活動は地元の人の理解を得られず、結局、6年で終わってしまいますが、この学校には多い時には、100人以上が参加し、「山の学校」の愛称で親しまれたと言います。

 そして岡本利吉は後年、農本主義者の団体を設立したり、美愛卿純真学園という学校を開校したり、人工言語「ボアーボム」を発明したりした後、1963年に亡くなりました。

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