東京里山シェアリング
13:獏原人村
~基本情報~
●名称:獏原人村
●設立:1976年頃
●住所:福島県双葉郡川内村下川内バク501
●メンバー:2~3人
●事業:自給自足生活、養鶏、イベント開催
●特徴:1970年代のヒッピーコミューン。自給自足と音楽イベントを開催。元原発事故避難区域
●代表:風見マサイさん
●連絡先:g.masai@docomo.ne.jp
~概要~
獏原人村は1976年、福島県で生まれた、自給自足的なヒッピーのコミューンで、現存する珍しい場所です。
福島県双葉郡川内村という、県内では東の方、比較的に海に近い山間地域の山奥の、舗装のない林道を進んだ奥に獏原人村は存在します。携帯の電波は通じません。その山奥で40年近く、自給自足の生活を続けています。
多い時で数家族、20名程が暮らし、畑を耕して野菜を作り、鶏を飼って卵を作り、水は自然の水を使い、電気は太陽光で自家発電します。1990年代から毎年夏の満月の日、1000人以上が集まる「満月祭」も開きました。
2011年の東日本大震災に伴う原発事故で、川内村は全村避難の対象となり、一時、獏原人村も非難を余儀なくされますが、再び、代表のマサイさんご夫婦は獏原人村に戻り、満月祭も継続し、獏原人村で若者の音楽イベントが開催されたり、マサイさんが地元の地域おこしの活動に取り組んだりと、今でも活動は続けられています。
~場所~
獏原人村は福島県双葉郡川内村という、県内では東の方で、比較的に海に近い山間の村の更に奥地にあります。川内村は阿武隈高地の中央部、山に囲まれた盆地にあり、標高500~600mの高原と山林が大半を占める村です。獏原人村は川内村内を南北に走る国道399号線を川内村役場から9.5km、手古岡トンネルから400m程南下し、林道に入り、4km程進んだ場所にあります。地図で見ると木戸川第一発電所の南南西1.5㎞程、グーグルマップならストリートビューも見られます。…って言うか、ストリートビューの撮影車、村まで入ってたんだ…
川内村は2011年の東日本大震災に伴う原発事故で全村が放射能汚染地域、避難対象となり、一時、獏原人村も避難しましたが、マサイさんは一月ほどで獏原人村に戻り、2016年には全村で避難指示が解除されました。
~施設~
獏原人村には現在、3戸の住宅(1戸はマサイさん夫婦の住宅、1戸は原発事故以降の空き家、1戸はゲストハウス?)、と、倉庫、鶏舎、菜園、満月祭等のイベントを行う広場、音楽イベントなどが行えるドームハウス、
イベントの際の会場や宿泊場所になる建物、その他、太陽光パネルや水を汲むパイプや池、川も流れています。
マサイさんの家は村の中心にあり、家の前には沢山の太陽光パネルが並びます。もう一戸の住宅には震災まである家族が住んでいましたが、震災後、別の地域へ避難し、現在は空き家となっていましたが、素敵な建物です。
ゲストハウス?と書いたのは三日月荘という建物で、元々、ある家族が暮らしていましたが、一旦空き家になり、訪問時は和泉さんという方が住んでいました。満月祭等の際は宿泊場所になり、筆者もそこに泊めて頂きました。
鶏舎で飼っている鶏からは、卵を取り、販売して、現金収入を得ています。菜園で育てる野菜は自給用です。
そして、満月祭のメイン会場となる広場には、ドーム屋根の付いたステージや、本部となる小屋が建ち、更に広場の上段に、音楽イベント等で使われるドームハウスや、イベントの会場や宿泊場所に使える建物があります。獏原人村には電線は通っておらず、住居にはそれぞれ太陽光パネルが設置され、水は自然の水を汲んで使います。自然に溢れ、自給自足に必要な設備、住環境は整えられ、イベントや宿泊もできる。とても魅力的な村でした。
~人物、歴史~
1976年に川内村で誕生した獏原人村。初期メンバーの一人であり、現在も獏原人村で暮らすマサイさんの生い立ちと、獏原人村の歴史を簡単に紹介させて頂きます。
1970年代、日本の若者の間で二つの運動が流行しました。
一つは学生運動です。1960年頃、日米安保反対運動で盛り上がりを見せた学生運動は、一旦落ち着きますが、1960年代後半、世界各地のベトナム反戦運動、学生運動の流れに乗って、再び盛り上がりをみせていました。
マサイさんは子供の頃から、世の中の理不尽や矛盾の解決に関心があり、学生時代、学生運動に興味を持ちます。しかし、1970年代前半になると、学生運動は党派間での内ゲバや、連合赤軍のリンチ殺人事件で支持を失い、
マサイさんも、暴力で矛盾を解決しようとしても別の暴力や矛盾が生まれるだけだと、学生運動を離れました。
同じ時代に日本の若者の間で流行した運動がヒッピー運動です。1960年代後半、アメリカでベトナム反戦運動を発端に、ヒッピーと呼ばれる若者が生まれました。ヒッピー達は派兵に反対し、徴兵を拒み、戦争を起こす伝統的な価値観や現在の社会制度、文明、生活を批判。愛と平和を訴え、自由や自然を愛し、反戦歌を歌ったり、放浪の旅をしたり、自然の中での自由な、野生的な生活を目指し、コミューンと呼ばれる共同体を作りました。ヒッピー運動は世界各地、日本の若者の間でも流行します。マサイさん達は特にヒッピーを意識した訳ではなく、既成の価値観や社会制度に縛られず、しかし、学生運動の様に破壊や暴力を用いず、何もない所に新しいものを作ろうと考え、福島の山奥で自給自足の生活を開始。結果的にヒッピーのコミューン運動と被ったといいます。
同じ時期に日本各地でヒッピーのコミューンが誕生。獏原人村は多い時期で数家族、20人程が住み、野菜を作り、鶏を飼い、家を建て、自給自足生活を実現させます。社会を変えるという、壮大な目標には届きませんが、
同じ時代の日本各地のコミューンが消滅する中、獏原人村はヒッピー共同体の生き残りとして活動を続けます。
1990年代以降、夏の満月の時期に一週間程、獏原人村で「満月祭」を開催。最初は身内の集まりでしたが、
音楽家やバンドが集まり、ステージでライブを行い、様々な出店が出店し、日本中の若者や音楽好きが集まり、
ゲストハウスや各自のテントで寝泊まりする様になり、多い時で1000人以上が集まるイベントに成長します。
ですが、2011年03月、東日本大震災に伴い、福島原発事故が発生。獏原人村も避難区域となり、マサイさん達も獏原人村を離れます。しかし、最初は茨城の奥様の実家に避難しましたが、鶏の世話をする為に獏原人村に通い始め、通うのも大変という事で、2011年4月には獏原人村に戻り、同年08月には満月祭を開催しました。獏原人村の住民は、震災前の6人から震災後はマサイさんご夫婦2人になり(プラス、和泉さんという方が仕事の状況でいたりいなかったり)、満月祭の参加者も震災前の1000人規模から震災後は200人程になりましたが、それでも、マサイさんは獏原人村で生活を続け、毎年夏の満月の夜には獏原人村でお祭りを催し続けています。
マサイさん達は獏原人村に来た頃は、政治や社会、原発の問題に対して、積極的に関わりはしませんでしたが、スリーマイル島の事故やチェルノブイリの事故以降、原発の近くに住む以上、無関係、無関心ではいられないと、反対の立場になり、電気も電力会社に頼らず自給しました。しかし、福島原発事故で川内村、獏原人村も被災。
村に留まるか、他所に避難するか、選択を迫られます。そして、放射線のリスクはあるが、都会で暮らすとか、
別の場所で一から村づくりをやり直すより、リスクを向き合い、村での暮らし続けようと、残る事を決めました。
震災前は、昔から地域で暮らしていた川内村の人々と、新参者で山奥に住む変わり者のマサイさん達の間には、何となく距離がありました。ですが、震災後は、川内村自体の状況が一変し、川内村の住民は減る一方、外部から色々な人が支援の為に村に入ってくる状況で、マサイさん達も川内村の地域おこしなどに参加する様になり、例えば、マサイさんは川内村の「盛り上げっ課」という、地域おこしのグループに入り、活動をしていました。
また、獏原人村を音楽イベントの会場として使いたいという若者には村を会場として貸し出しもしていました。
昔の、理想郷を作り社会を変える、という様な壮大な計画は実現しませんでしたが、原発事故後も村に留まり、生活を続け、祭りを続け、地域の活動に参加し、若者に活動の場を提供しています。自給自足のヒッピーのコミューンの生き残りというと、世間から隔絶した世捨て人の様な人を想像していましたが、獏原人村は、地域の人々や、獏原人村を愛する人々との繋がりの中で、新しい「ユートピア」の形を模索し続けていました。