東京里山シェアリング
~基本情報~
●名称:平民社農場
●設立:1904年設立、1906年解散
●住所:北海道虻田郡留寿都村字泉川
●メンバー:社会主義団体、平民社のメンバーとその家族、多い時で10数名程
●事業:農業生産
●特徴:社会主義団体、平民社が設立。
●代表:中心人物は原子基、深尾韶ら社会主義者
●連絡先:―
~概要~
平民社農場は1904年、現在の北海道虻田郡留寿都村で社会主義団体、平民社のメンバーが設立した農場です。
平民社は1903年、東京の新聞社で記者をしていた幸徳秋水と堺利彦が、自分達の新聞社が日露戦争非戦から開戦に立場を変えた際、非戦の主張を貫く為、新聞社を退職し、平和主義と社会主義と「平民主義」を主張する新聞社として設立、社会主義運動の中心となりますが、1905年に政府の弾圧で解散。1907年に再結成するも、3カ月で解散。1908年に再々結成するも、1910年に解散、同年の大逆事件で主要人物の大半が逮捕されます。
平民社農場は1904年、北海道虻田郡真狩村、現在の北海道虻田郡留寿都村の字泉川地域で11.4haの土地を借り(北海道国有未開地処分法の適用を受けて)、入植。現在の泉川地区は、南の竹山・貫気別山から、村営牧場のある丘陵地帯を抜け、国道230号線沿いのルスツリゾートなどのホテル、遊園地ゴルフ場が立ち並ぶ地域です。
中心人物の原子基、深尾韶らは、内地の政府の弾圧を逃れ、平民社の掲げるキリスト教社会主義の実践として、地主が支配し小作人が耕す農場ではなく、自作農集団が耕す社会主義的な農場の建設を目指し、開墾を始めます。成功すれば、半農半「宣伝」生活をし、支援を受けた東京の同志に収穫物を送ろうと考えていたかもしれません。
まず笹葺小屋を建て、森林を開拓しますが、農業素人集団で馬もいない為、初年の開墾は1.5haのみに留まり、
収穫は自給自足するには足りず、東京の同志の支援を頼みます。おまけに、周囲の農家からは「東京からきた百姓でない百姓」「主義者の物好き」と馬鹿にされ、警察から社会主義者との情報も回り、信用されませんでした。ですが、翌年も開墾の努力を続け、段々と周囲の誤解もとけ、逆に同情され、駐在巡査まで世話をしだします。前年と比べて作物の収量も増えました。しかし、火事で家屋が焼け、借金も発生。経済的に致命傷となります。
火災後、脱退舎が続出し、翌年も開墾と農業は続けましたが、遂に3年目の10月、農場の解散を決定します。開墾地2.5haは現地に残る者が買い取り、そのお金で出資金を返済しました。その年の事で特筆すべきとしては、農場や近くの村で幻灯会(昔のスライド映写機の上映会)を開いて、寄付を集め、足尾銅山の鉱毒被害地・谷中村に送った事があります。また、彼らは、借金等で土地を失くした移住者や小作人を無料で宿泊させていました。自分達の暮らしが苦しい中でも、他者への思いやりを忘れない。それは平民社の精神の表れだったのでしょう。彼らの理想と実践は、有島武郎や武者小路実篤らによる、後年の日本の農業共同体活動の先駆けとなりました。
参考サイト
羊蹄まちしるべ研究塾:http://www.36guide-ikusei.net/text/213/post_80.html
六丈記2 留寿都と赤い靴4:http://m8bolt.blog.fc2.com/blog-entry-376.html